ある未解決事件について

中にあったのは１冊のノートだった。自由帳のような感じでどこにでも売っているものだ。実際、義男さんも安子さんも、買い与えたか、誰かにもらったか、そもそも家にあったものか全く覚えがなかった。その自由帳には数ページにわたって、どう考えても大人が筆で書いたとしか思えない達筆な字で何やら文章が書かれていた。

それは漢字とカタカナが入り混じった文章で、最初にそのページを開いた若い警察官はそこに何が書かれているのかさっぱり分からなかった。他の警察官に見せても内容が分かる者はおらず、その内容が分かったのはある中年の警官に見せた時だった。

「これは教育勅語だよ」みなさんも歴史の授業で習ったはずだ。簡単に説明すれば戦前、戦中の国民の心得みたいなもので、学校でも広く教えられていたが、戦後は軍国主義の反省やら何やらで学校教育からは姿を消した。終戦から約30年だ、若い警察官が内容を知らないのも無理はなかった。

これが出てきたことで、警察の頭にはある団体の名前が浮かんでいた。それは古くからS市を拠点にしている右翼団体のS神会だ。S神会は過激な活動を行うことで知られており、過去に何度も傷害事件を起こしていた。S神会関連で負傷した警官も多く、警察はその動向を常に注視していた。「今まで殺人事件は起こしていなかったが、奴らならやりかねない」警察内ではそう考える者が少なくなかった。

しかし、警察がS神会を捜索することはなかった。教育勅語が書かれたノートという物証があっても、それは刺身包丁が凶器だから板前が怪しいレベルの話であり、現実に捜査へ踏み切るだけの理由にはならなかった。だが、それ以上に警察はS神会を刺激したくなかった。

S神会は１年前に代表が変わり、穏健派の会長となったことで今までのような過激な活動は見られなくなっていた。それでも、以前のような過激路線を主張する勢力は根強く残っており、新会長の地盤も盤石ではなかった。そのため、S神会はいつ以前のような過激な団体に回帰するかわからない不安定な状態だった。そこに警察が入って行けばどうなるか？警察の捜査が過激派の勢力を刺激し、S神会内の均衡が崩れかねない、そういう危険性が伴っていた。警察は寝た子を起こしたくはなかった。

それに、S神会と浜野さん一家との関係性、さらには橋本さんとの関係も見えてこなかった。警察はさりげなくS神会の名前を出したが、義男さんも安子さんも「知らない」「関係はない」の一点張りだった。義男さんではなく、N建設とのトラブルも考えられたが、それを調査するにはS神会、N建設両方に入り込まなければならなかった。結局、わかる範囲ではS神会との繋がりは見えてこなかった。

実は警察がS神会を疑っている時、上層部ではもう一つ、ある団体の名前が挙がっていた。こちらは名前を出すのも憚れるのだが、K連合としておこう。右があれば当然左もあり、その二つがお手々繋いで仲良くやっている訳がない。K連合はこの辺りで最も勢力のある左翼団体で、当然S神会とは敵対する関係だった。K連合のデモ行進にS神会が乗り込み２桁のけが人を出すという大事件も過去には起こっていた。

S神会が穏健路線に舵を切ったのとは対照的に、K連合内では過激な活動を主張する動きが強まっていた。そのころ日本全国で起こっていた左翼団体のテロ事件に触発されたとみられているが、実際は勢力の拡大、いや、勢力維持のための方針転換だと言われている。折しも、A県全体で保守勢力が議席という目に見える形で勢力を伸ばしており、それに伴ってK連合の活動には段々と白い目が向けられるようになっていた。そこに、相次ぐ左翼団体のテロ事件も相まってK連合は市民からの支持を失いつつあり、弱体化の兆しが見えていた。起死回生のための過激派路線だが、望みが薄いことは連合内でも既に指摘されていた。

このままではK連合は凋落の道をたどってしまう、S神会にも打ち負かされてしまう、そういう焦りがK連合で広まっていた。つまり、この事件はK連合がS神会の勢力を削ぐために仕組んだのではないか？もっとも、それはなぜ雪子ちゃんが殺されなければならなかったのかという回答にはならないが。

K連合は某政党と密接な繋がりがあり、資金援助など多くの支援を受けていた。某政党がすぐ後ろにいる以上、一地方の警察が捜査に入るにはとんでもなく高いハードルがあった。つまりは、よほどの事件をK連合が直接起こさない限り、K連合は警察の捜索を受ける危険性がなかったのだ。そして現実はその通りとなり、警察は指一本触れることも叶わなかった。

第一、遺体のすぐ側に教育勅語の書いたノートのようなメッセージ性を持ったものを置いていくだろうか？S神会の犯行だとしても、娘である雪子ちゃんを殺害するというだけで浜野さん夫妻にはその意図が十分に伝わるはずだ。下手をすれば自分たちの首を絞めかねないものをわざわざ現場に残していく、迂闊どころかあまりに露骨ではないだろうか。

また、橋本さんが看護婦であったと書いたが、以前橋本さんが勤めていた病院は某政党の熱心な支持団体であり、S神会よりかはK連合との繋がりを疑う要素はあった。もっとも、橋本さんはもういないのだから真相は闇の中だ。

この２団体のどちらかが関わっているとなると色々と腑に落ちることがある。警察はやはり雪子ちゃんはどこか別の場所で殺害され、トイレに遺棄されたという見方を強めていた。

現場となったトイレがあるエレベーター横の狭い通路、その先には従業員用の通路があった。関係者以外立ち入り禁止の扉を抜けると、そこには男女の更衣室とデパートの裏の方へ出る出入り口だけがある。事務室など他の場所とは全く繋がっておらず、純粋に出入り口としてしか機能していない。そのため、ここに人通りがあるのは始業前、終業後、昼休みの３つの時間帯しかなく、その他の時間帯は無人と言ってもいい。

出入り口には常に鍵がかかっているが、内鍵がついているため屋内からなら鍵がなくても開けられる。つまり、誰かが中から鍵を開けさえすれば外から侵入することは容易だ。出入り口の事情を知っているとなれば、デパート内部の人間、従業員の誰かが手引きをした可能性が高かった。だが、警察が聞き取りをしても、エレベーター横の通路を通った従業員を見た者は誰一人いなかった。直接的な聞き方をせずに「売り場を離れた従業員はいたか？」程度のことを聞いても、ほぼ全員が「いなかった」としか答えなかった。

同僚をかばう気持ちも、デパートの評判を落としたくないという思いもあるだろう。だが、そこに組織への共同体意識や忠誠心が絡んでいるのだとすれば、誰一人口を開かないことの異様さもいくらかは理解できる。飛躍した考えだが、Hデパートの上層部、いや、Hデパート全体がどちらかの団体と関係していた、あり得ないことではないだろう。

また、ボーリング場と喫茶店での聞き込みだが、どちらにも気味が悪い程に詳細なことを証言した従業員がいた。顔立ちから、服装、身に着けていたアクセサリーまで、まるで目の前で見ているかのように語っていたのだ。挙句の果てに、注文したメニュー内容やボーリングのスコアまで語りだしたのだから警察官は閉口するしかなかった。

他の従業員からは有力な目撃証言がなかったため、警察はその詳細な証言は保留にしていた。その証言が何かの決め手になることはなかったが、その従業員も団体の関係者だったならばこの不可解な証言にも合点がいく。

浜野さん夫妻は事件後すぐに県外へと引っ越していった。マスコミの取材にも一切応じず、新聞に数行のコメントが掲載された以外、外へと発信することを避け続けた。そして、最後の最後までS神会とK連合について「知らない」を貫き通した。

事件は次第に忘れ去られていった。市民はHデパートを最初こそ気味悪がっていたが、１カ月もすると客足は戻り、デパート内には活気が戻った。エレベーター横のトイレは改装こそされたが、デパートの閉店まで約20年の間使われ続けた。

そのHデパートも90年代に閉店し、多くの市民が閉店を名残惜しんだ。だが、その中のどれだけがデパートで亡くなった女の子のことを覚えていただろう。デパートの跡地には別の商業施設が建ったが、それもつぶれて現在はだだっ広い駐車場になっている。

ピンク服の女性を探すビラもなく、テレビで一言も語らなかった雪子ちゃんの両親、世間がこの事件を忘れてしまう、なかったものにしてしまったのも無理はない。だとすれば５歳で死んでしまった女の子の魂はどこへ行く？どこへも行きはしない。人間の途方もない悪意は魂すらも飲み込み、腹の中で溶かし、己の血肉とするのだ。ある意味で両親の元へ帰ることも出来なかった魂、みなさんは不憫に思うだろうか？殺されるとはそういうことだ。寿命で、事故で、病気で死ぬのとは全く違う。何度でも繰り返そう、殺されるとはそういうことだ。