大家と猫

3月。大学まで徒歩15分に位置する、寂れた商店街と隣接する二階建て木造アパートメント。壁面の5割が黒くうねったツタに侵食され、手すりの塗装はバラバラと剥げ落ち、窓のアルミサッシさえも黒くくすんだこのボロ屋に、”家賃の安さ”という学生にとっては最強の条件だけを求めてやってきた女がいた。晴れてこの春からこの近くの大学生になった、彼女の名前は矢野。彼女は憧れの一人暮らしに夢を膨らませ、胸を高鳴らせていた。
「遠いところ、よくおいでなすって。荷物は先に運ばせて貰ったよ。風呂はないからそこの道の左に銭湯を使いなさんな。あとはペットは飼わないでおくれね。」
大家である老女から鈍色の鍵を受け取り、この貸家に1つしかない階段をギシギシ上る。部屋は横並びに5つずつ、2階まであるので計10部屋。部屋は安いのだが、あまりの古さに人入りが悪く、2階は全て空室だという。矢野は1番左のドアを選び鍵穴に鍵をさした。ギッギリギギギ、ガチャ。鍵穴の錆付き具合に眉を顰める。
「油か何かをささなくっちゃ」
鍵穴の錆は、夢の新生活には似合わない。

5月。例年よりかなり早めの梅雨入りを果たした曇天は、退く気はさらさらないらしい。
ギッギリギギギ、ガチャ。特徴的なリズムの鍵穴は、未だに油をさしていない。
「なぁんで油をさすのはいけないのかしら。」
1度鍵穴のまわりを良くするために、オイルを買ってきた時の大家の反応を思い出す。泰然自若としたあの老女があそこまで強く言葉を荒らげるとは思いもしなかった。必死に止められ、今は諦めそのまま、鍵穴は錆と共存している。
1階の敷地に茶トラの猫が歩いているのが見える。黒いツタは以前より生命力を帯び、右端の部屋を覆いつくさんとしていた。

黒雲の嘆きは止まず、雨一色に塗られた6月の空気。突然の雨に買い物袋を抱え、やっとの思いで家に帰ってくると、1階の右端の部屋の前に西澤さんが佇んでいた。
「どうなさったんですか？」
「ああ矢野さん。どうということもないんですけどね、いやにツタが伸びてきたなと思って。僕の部屋の前だけでも取り除こうかと。」
見ると、黒々と生い茂ったツタは、西澤宅の扉の隙間にまで侵食を進めている。
「矢野さんも早めに取り除いた方がいいですよ。扉開かなくなっちゃったりして。」
はははと笑いあってついでに傘を借りて部屋へと戻る。階段の上にまで来た時、ふと右側に視線を向ける。1番右の部屋はツタで見えなくなっていた。西澤さんの青い傘からボタボタと雨露が落ちていった。

雨は薄れていくどころか苛烈さを増したまま6月の下旬へと人々を誘う。玄関のドアを開け曇天の空にため息を見せつける。足下をみると毛皮を濡らした茶トラの猫が擦り寄っていた。
「はいはいどうぞ、ご飯ですよー」
気がつくとそこにいた茶トラはいつからか、隣の部屋の前で矢野に餌をねだるようになっていた。女子大生1人の暮らしには猫の温かみがありがたくもあった。
「うぃんうぃんの関係ってことね」

手のひらの下の暖かな毛玉がこちらを見上げる。つぶらな瞳に笑みが零れ、撫でる手にも力が入る。
ふと、茶トラは建物の右端の方に視線を移した。矢野の視線もそれに追随して上がる。ツタは右から2部屋を潰し、3部屋目に手を伸ばしていた。茶トラはミャオンと一声鳴いた。

「ええ？西澤さん引っ越されたんですか？」
「西澤さんだけじゃなく、お隣の木村さんも引っ越しちまってねえ。世の中物騒だから、戸締りには気をつけなさんね。」
階下で会った大家は瞳を伏せて告げる。
「あと、ここらに野良猫がいるみたいで。見つけたら保健所に連絡しておくれ。困ったことがあったら私を頼るんだよ。」
他にも細かな連絡を受け、大家と別れて部屋に戻ると、以前の時に借りた青傘が倒れていた。あの時以来、西澤さんとは会っていない。
「借りパク、しちゃったな」
いい加減聞き飽きた雨音は相も変わらず部屋の外を覆っている。ふと、水音をぬってカリカリと音がする。扉を開けると茶トラがいた。
「キミはいなくならないでよ」
餌を与え隣の部屋を見やる。ツタの黒手は確実にこちらに近づいてきている。