食べたいくらい

「大変！」
「ほらやめなさい！ちぃちゃんを離しなさい！！」
「大丈夫だから落ち着いてほら、ね？」

幼稚園の中庭。青空の下で、私はSちゃんに嚙みつかれました。とにかく呆然としていたのを覚えています。痛みはあまり感じなくて、でもSちゃんが私から全然引きはがせなくて先生たちがとても慌てていました。

「結構大騒ぎだったから、ちょっとね、当時ちぃには言わなかったけど、聞いたらね、『好きだったからやった』っていったらしいの。だから危ないからってことで、Sちゃんは別のところに行くことになったの」

そうか、幼稚園からそのまま小学校にいったメンバーは覚えていたけど、Sちゃんはそこにはいなかったから忘れていたのかと私は納得した。
右肩に視線をやって、赤い二つの、Sちゃんの歯形をなぞった。

「なんとなく思い出してきた。そっか、私噛まれたんだよね。なんか突然すぎて覚えてないけど」
「そうね。でも、そっかぁ、あれだね、年月立ってるけど、たぶんお風呂入って血行よくなったから出てきたんだろうね。そういう古傷って結構あるものだから」

「あーなるほど。今まで気づいてなかっただけで、ずっとあったってことかぁ」
「そうだね。だって大人三人かかりで引きはがせなかったのよ。当時はもっと酷い色してたし、……でも、こんなに時間がたっても消えないくらい強く噛まれてたのね」

自分の指。服の袖。ハンカチ。ぬいぐるみ。お菓子。そして、私。
あの懐っこいSちゃんは、食べてしまいたいくらい私のことが好きだったのだろうか。

実家を出て、社会人になった今でも、お風呂上りに鏡を見ると右肩に目が行くんです。
じんわりと浮かび上がる、小さな二本の赤い歯形。
そして思い出すんです。
ちぃちゃんと私を呼ぶ可愛い声、にこにことした笑顔、青空と先生たちの声、もうきっと二度と会えないあの子。

……Sちゃんは今もまだ、何かを噛んでいるんだろうか。