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ヒトコワ

砂の唄さんによるヒトコワにまつわる怖い話の投稿です

秘匿
長編 2023/04/04 15:35 18,730view
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温泉の良し悪しというのは私には分からないが、このホテルの温泉は檜の広い湯船に、露天風呂やジェットバス、薬草湯や電気風呂など種類が豊富で、私は十分にこの温泉を楽しんでいた。私は叔父さんと隣の旅館の温泉にも行ってみた。そこは露天風呂が充実していて、ホテル毎に特色があるのだろう。叔父さんは大変満足していたようで、上機嫌で車に乗り込み帰って行った。部屋に戻った時には既に外は暗くなっていて、あの誓約書の内容が思い出された。ホテル内には割と充実した売店があり、外出する必要はないのだが、やはり何となく外の様子が気になる。

この〇〇温泉での日々だが、それはここを桃源郷と呼んでも差し支えない極上のものだった。地図とにらめっこしながら「次はここの温泉に行こう」「あそこの温泉にまた行ってみよう」とワクワクしながら考え、実際に温泉へ入ると期待を裏切らない満足があった。〇〇温泉には食事処が4軒あり、4軒と書くと少なく感じるが和洋中が揃っていて食事を選ぶ楽しみも尽きることがない。また、ホテルの従業員に限らず、〇〇温泉の全スタッフが非常に礼儀正しい。その中でも驚いたのはどこへ電話をしても必ず2コール以内に応答してくれることだ。ラウンジで他の宿泊客と雑談していた時に聞いたが、それはここの温泉組合の心得というか、モットーというやつで「電話は2コール以内に出る」が厳守されているらしい。「3コールでは遅い、2コール、可能なら1コールでお客様に対応しなさい」とお偉方の誰かが言い出して、全員がそれを守っているそうだ。サービス、温泉、食事、全てにおいて完璧と言ってもよかった。

しかし、どうしても飽きというものがやって来る。温泉に不満はないのだが、20歳の男が毎日温泉ばかりでは飽きてしまう。〇〇温泉にはコンビニと土産屋が一軒ずつあるが、毎日通ってみても品揃えが変わるでもなく、コンビニで新聞や週刊誌を買ってみても大して面白くない。町の方へ行ってみようとも考えたが、バスは一日4便程度で、周辺の地域をぐるぐる巡って進むためか片道3時間かかる。テレビも民放が3局しか映らず、こういうホテルにありがちな有料放送もない。スマホの小さな画面で動画を見るのも限界にきていた。

この〇〇温泉がある山間の〇〇地区は上空から見ると半月上の形をしていて、カマボコの断面を想像してくれれば分かりやすいだろう。カマボコの中央から少し下あたりにこの〇〇温泉がぽつんとあって、カマボコのピンク色にあたる部分に住宅、郵便局や交番のような生活施設がぽつぽつと点在している。〇〇温泉と住宅地の間の空白地帯には農地が広がっていて、その中を細い農道が毛細血管のように入り組んでいる。いよいよ飽きが限界に達した私は、この住宅エリアにスーパーとホームセンターがあることを知り、そこへ行こうと考えていた。ネットで見た地図だと直線で歩いて20~30分くらいの距離だ。

私がホテルを出発したのはここに来て5日目の15時頃だった。私のホテルは住宅エリアとは正反対の温泉街の入り口近くにあったので、まずはこの温泉街を通り抜けていかなければならなかった。前に書いたが、ここから一番端のホテルまでは確かに歩いて15分ぐらいで、道が入り組んでいることもなく迷うことはまずない。というより、ここにはホテルと旅館、さっき紹介した食事処とコンビニ程度しか建物がなく、住宅やアパートのような建物は一つもない。ある意味でここは陸の孤島であるのだが、私はそんな風には思わず、テーマパークみたいだなと考えていた。

一番端にあるホテルを通り過ぎると、小さな民家のような建物が数件見えた。最初に渡された地図に書いてあったが、温泉街の端のところにはスナックのような飲み屋が何件かある。夜間の外出を制限しているのに飲み屋?と思うだろうが、移動にホテルの送迎車を利用することを条件として、夜でも飲み歩くことはできるらしい。現にその飲み屋の営業時間は21時から2時までとなっている。飲み屋には一度も行ったことがなかったので、この辺りを歩くのは初めてのことだった。

目に見える景色がキレイな建物や草木から物悲しい農地に変わる頃、飲み屋から500m位離れた場所だろう、そこで私は一軒の大きな建物を見つけた。それは大人の背丈よりも高い鉄製の柵に周囲を囲まれ、敷地内は一面無機質なアスファルト張り、その中に横に長い長方形の建物がぽつんと存在している。最初、私はここもホテルなのだろうと思ったが、柵と柵の切れ目に一本のロープが張られていてそこには「立ち入り禁止」の板がぶら下がっていた。この一軒だけ営業が終了しているのか?しかし、地図にはこんな建物のことは載っていなかったはずだ。しばらく、柵の外側からこの建物を観察していたのだが、この建物の妙な点に気が付いた。

第一にこの建物はあまりに殺風景すぎる。他のホテルや旅館は雰囲気づくりのために外壁の色を工夫し、周囲に草花や松の木のような植物を植え、敷地が広い場合は池や庭園まである。しかし、この建物の外壁は真っ白で、明らかに今まで見たものとは雰囲気が違う。また、一面のアスファルトには植物を植えられるスペースなど存在せず、この建物が利用されていた時からこの殺風景は変わらないはずだ。

第二に窓が妙だった。一階の窓は同じ大きさのものが等間隔で配置され、普通のホテルと変わりない。しかし、二階に配置されている窓が異様に小さいのだ。トイレの窓を想像してほしい。手を伸ばさないと中々届かない上の方にある、横には長いが縦には極端に短い、すりガラス状のあれだ。それが二階と思われる場所に等間隔で20近く並んでいるのだ。

「どうかしましたか?」遠目で建物をじっと見ていた私は心臓が飛び出るほど驚いた。慌てて振り向くと、半纏のようなものを着た40代くらいの男が立っていた。その半纏に見覚えはなかったが、どこかのホテルの従業員なのだろう。
「どうかしましたか?」また同じ言葉が飛んできた。
「あの、誰か…人がいたような気がして」
「おや、それは大変だ。子供が入り込んでしまったのかもしれない。警察に連絡をしないといけないな。あなたはここのお客さんですね?警察に証言をしてもらえますか?」
苦し紛れの言い訳に対し男が随分と性急なことを言い出したので、私はすっかり委縮してしまっていた。
「いえ、見えた気がしただけです。足音も何も聞いてませんし、影みたいなものが動いた、そんな気がしただけです…」
「まぁ、そうでしょうね」男はあっさりとした感じで言った。
「ここはですね、もう10年以上も使われていない廃墟なんですよ。今更中に入る人間なんていませんよ」男性はもう私を責めたり、脅かしたりするつもりはない様子だった。

「どちらまで行かれるんですか?」

「あの、住宅地にあるスーパーまで行こうかと…」
「歩くと結構かかりますよ。車を出しましょうか」
「いえ、歩いて行きます。お気遣いありがとうございます」
「そうですか。日が落ちてしまう前には戻って来てください」
そう言うと男は温泉街の中心の方へと歩いていった。

私は終始びくびくしていたが、男が呆気なく自分を解放したことに拍子抜けしていた。話しぶりからどこかの従業員に間違いはなさそうだが、私に何を言いたかったのだろうか。ともかく、私は住宅エリアの方へと歩き出し、しばらく歩いて目的のホームセンターへ辿り着いた。歩いているうちに、私の中にはよくない好奇心が芽生えていて、私は懐中電灯と軍手を手に取っていた。

帰り道で確認したが、例の建物の裏手は荒れ果てた農地になっていた。正面からでは見つかる可能性が高いが、周辺の細い農道を経由しての裏手からなら大丈夫なはずだ。また、数日いて分かったことだが、午前と昼過ぎくらいまでは宿泊客以外にも宿の従業員をはじめとした色々な人間が通りを出歩いている。だが、夕方になると出迎えや夕食の準備があるのか急に姿を見かけなくなる。つまりは夕方5時ごろに行けば見つかる可能性はさらに低くなるだろう。

私は部屋であの奇妙な建物について色々と想像を巡らせていた。あの建物があったのはこの温泉街の本当の端っこ、正式な入り口とは最も遠い場所だ。この温泉街には必要なものしか存在せず、不必要なものは全くと言っていいほど存在しない。ならば、「立ち入り禁止」のあの建物は紛うことなき不必要なもので、なぜあそこに解体もされず存在し続けている?あの男の言うことが正しいならなぜ10年近くも放置されている?私はあの建物について邪推のような探偵ごっこを楽しんでいた。

生涯忘れもしないあの日のことだが、金曜日であったとだけ記そう。私は着替えを持ち歩くのに使っていた小さなナップサックに昨日買った懐中電灯、軍手、携帯電話、その他を詰めて、予定通りの5時にホテルを出た。フロントのスタッフは「いってらっしゃいませ」と声をかけてきたが怪しむ様子は全くない。予想通り、外は数人の宿泊客が歩いているだけで人通りは少なかった。

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コメント(2)
  • ゾクゾクした

    2023/04/06/00:19
  • 最後、笑顔で何て言ってたんだろう‥非通知に出たら何を言われるのか‥想像力を掻き立てられます。

    2023/08/18/00:05

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