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不思議体験

笑い馬さんによる不思議体験にまつわる怖い話の投稿です

レクイエム
長編 2021/01/22 18:31 12,913view
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《昔、深夜の時間帯に見た不思議なテレビ番組。何もない草原で一人の大柄な日本人の女性がモーツァルトのレクイエムを歌っていた。誰もいない草原で、「まるで誰かに歌って聞かせる」かのように歌声を響かせる女性。
自分もその草原でレクイエムを演奏したい。自分には歌うのは無理だからバイオリンを演奏しよう。彼女の歌にバイオリンのパートを加えたい》

そのように考えたのだという。
それから毎日、なにかに取り憑かれたようにレクイエムの楽曲を練習する日々。仕事を辞め、家族と離れ、ついにはヨーロッパへといつの間にか来てしまったのだとか。
「妻のことは大事だ。子供もいる。自分は、日本に大切なものがたくさんあった。妻や子を嫌いになったわけではない。ではなぜ、私はここにいる?自分には分からない。不思議なテレビ番組で見た草原はここサンクトペテルブルクの郊外だ。ここで、自分はレクイエムを弾き続ける。もう自分の頭にはレクイエムのことしかない」
男は焦点の合わない目で、小刻みに震えながらそう口走っていた。

それからのこと。
私は日本に帰国した。
レクイエムに取り憑かれた男とはそのバーで飲んで以来、会っていない。
ある日、海外旅行好きの友人が、「ロシアに長旅に出る」と私の所に挨拶に来た。
レクイエムの男がどうしているか、今も草原でバイオリンを弾いているのか、それとも日本に帰ったのか。それが無性に気になったので、友人に「日程に余裕があればレクイエムを演奏する男がいるか見てきて欲しい」とダメ元で頼んでおいた。

旅行から帰ってきた友人は「レクイエムを弾いていた男はサンクトペテルブルクの野原で死んでいた」と教えてくれた。
地元のロシア人たちが、「バイオリンを持った日本人が毎日、草原にある樺の木の下で演奏していた。雨の日も風の日も飽きもせずにレクイエムを奏でていたが、ある日を境に音が聞こえなくなった。行ってみると男は死んでいた。この樺の木の下では数年前にも、大柄な日本人の女性が衰弱死しているのが見つかった。あの場所は呪われている」と噂をしていたそうだ。

私が出会ったバイオリンの男、そして大柄な日本人の女性、ともに食事をまともにとっておらず、栄養失調の果てに衰弱して死んだと見られている。それでも、死の前日まではレクイエムを演奏することをやめなかったとか。

私はそれからレクイエムのこと、第二次世界大戦の独ソ戦のことが気になった。

《ドイツ軍の兵隊たちは崇拝するヒトラー総統のため、あるいは誇りあるドイツの復活を夢見て命をかけて勇敢に戦った。
ソビエト軍は、戦いを恐れて逃げ出す兵隊の逃亡を防ぐために、逃亡兵を撃ち殺すための部隊を自らの軍の後方に用意した。
片や失った(第一次世界大戦でのドイツ敗北、世界恐慌による貧困)富と誇りを戦争によって取り戻すために戦い、片や逃げれば味方に撃ち殺されるために苦境であっても前に進んで戦った》

《レーニングラードはソビエトの指導者レーニンの名を冠する都市。ソビエト軍はこの共産主義の重鎮の名が付いた都市をドイツ軍に奪われぬように必死に戦わされた。
ドイツ軍もまたこの都市を必ず陥落させ、共産主義の名誉を失墜させるため、あるいは戦略上の理由でレーニングラードを執拗に包囲した》

体を爆弾で吹き飛ばされ、銃弾で撃ち抜かれて死んでいく兵隊たち。戦争を放棄して逃げ出すことはできない。
巻き込まれて死んだ市民たちはさらに悲惨だ。武器も持たず、食料もなく、どこに敵がいるかどこに逃げればいいのか情報もなく、ただ死んでいく。
人が死ねば葬式をする。故人の死を悼み、故人が正しくあの世にいけることを祈る。
ただ、極限の戦闘の中では、死体を埋める力もなく、死を悼む暇も体力もなく。ただ自分たちが生き抜くことしか考えていられない日々。
だから、誰かがこの哀れな戦争の犠牲者たちを正しく弔ってやらねばならないのだろう。
その慰霊の役にバイオリン弾きの男と大柄な女性とが選ばれた。

私もどうやら選ばれたらしい。
あの野原の夢を見る。
サンクトペテルブルク郊外の野原。
いや、「あの者たち」にとってはいつまでもそこはレーニングラードだ。町の名前が変わっても、死んで時が止まったままの者たちにとっては名前の変化など関係ない。
レーニングラードの野に死人が充満している夢。
体の一部を吹き飛ばされた軍服の者、やせこけて骨と皮だけになった少年、虚ろな目の女。軍人も民間人も分け隔てなく、草原に立つ死人たち。戦争で死んだ百万人の被害者たち。
何もない草原に大勢の死者たちが
立ち尽くしている夢。
やがて音が聞こえてくる。
バイオリンの音色。
女の歌声。
モーツァルトのレクイエム。
死者たちの鎮魂を願う楽曲。

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コメント(6)
  • 一本の小説を読んでるようだった…
    物悲しいけどとても美しい話をありがとう

    2021/01/23/00:31
  • レクイエム聴きたくなった

    2021/02/05/08:11
  • 不思議で美しく、そして悲しい物語だった。
    怪談として、それ以前に一つの物語として読み入ってしまった。
    草原に立ち尽くしひたすらにレクイエムを奏でる男、阿鼻叫喚の戦場、そして全てが終わった後の何も語らない草原、一つ一つの情景とレクイエムの旋律が脳内に鮮明に浮かんだ。
    私にとって忘れられない物語の一つとなるだろう。
    この物語を書き記してくれた作者の方に最大限の賛辞を送りたい。ありがとう。

    2021/02/15/22:46
  • レーニングラード、行ってみたくなった
    その野原はどこにあるのだろう
    今から楽器を練習しても間に合うだろうか

    2021/02/18/23:48
  • ビートボックスでもいいなら、私も参加したい

    2023/09/14/10:01
  • 日本人だったらそんな外人居たら英霊扱いだが、
    ロシア人「あの場所は呪われている」
    この部分が凄くリアルでいい。
    日本人は世界の常識を分かってない。外人も日本人と同じ心を持ってると勘違いしてる。北方領土に支援し続けて10年後に返ってきた答えが入島禁止だったのも笑ったが。
    道徳は日本の宗教でしかない事を理解せんとかん

    2023/10/10/12:46

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