父の実家がある県には看護科のある高校がある。
当時高校生だった従兄の彼女の友人がその学校に通っていて、校内ではまことしやかに語られている怪談がいくつかあるという。
その怪談の一つを、語ろうと思う。
その高校は本物の病院での実習がある。
もちろんほんの手伝い程度のことしかできないらしいが、先輩看護師の仕事ぶりを見てその憧れを強くする者もいれば、あまりのハードさに自信を無くしてしまう者もいるらしい。
ある日、一人の学生が夜勤の実習を受けていた時のことだ。
先輩看護師とともに真夜中の見回りを済ませ、彼女はふと、自分の持っていた懐中電灯を忘れてしまったことに気付く。
看護師に断りを入れ、心当たりのある場所を探すために暗闇の廊下を歩いて行く。借りてきた懐中電灯の明かりだけがその廊下を照らしている。
おそらく、見回り途中に寄ったトイレの手洗い場。
そこを目指して彼女は歩いて行く。
こつん、こつん。
自分の足音がやけに響く。
こつん、こつん。──こつん。
空耳かと思って足を止めたのは、自分の足音以外にもう一つの足音が聞こえたような気がしたからだ。
もしかしたら看護師が心配して追いかけてきてくれたのかもしれない、そう思って振り返ってみたけれど、誰もいない。
彼女は再び歩き出す。
こつん、こつん。──こつん、こつん。
きっと、静かな院内に、自分の足音が反響しているだけだ。
そう思い先を急ぐ。
こつん、こつん。
目指すトイレの前まで来ると、少し先の廊下に人がいた。
白衣を着た看護師だった。
──もしかしたら先輩だろうか? いつの間に自分を追い抜いたのだろう? それとも別のフロアの看護師?
彼女その看護師に声をかけようとして、足を止めた。
──なぜ、あの看護師は懐中電灯を持っていないのだろう。こんなに真っ暗な院内で。
そう思った瞬間ぞっとして、彼女は後ずさる。
気付かれてはいけない、と反射的に思った。
視線の先の看護師が、こちらを振り向こうとした。彼女は慌てて懐中電灯を消し、トイレに駆け込み個室の一つに入り、鍵をかけてうずくまる。
──あれはきっと、この世のものではない。
暗闇の廊下、うつむく白衣姿の女性。白くぼやけたその姿が、廊下の先にぼんやりと浮かんでいた。
震える身体を抱きしめながら、彼女は息を殺す。
こつん──
小さく響いた足音に、彼女は叫び出しそうになる。
こつん──こつん。
その足音はトイレに入り、個室の前までやってきた。
こつん。
そしてその場で立ち止まっているようだった。
彼女は必死で恐怖に耐え、震え続ける。
──こつん。
それきり、足音が聞こえなくなる。
──去ったのか?
ドアを開ける勇気はない。
彼女はがたがたと震え続ける。
──助けて。
ドアの向こうに人の気配は感じない。けれど、人ならざる者に気配など存在するのだろうか?
怖くて扉が開けられない。けれど、ここで耐えていれば、帰りが遅いことに心配した先輩看護師が探しに来てくれるかもしれない。
だから、それまで──
足音は聞こえない。
ドアの外に「それ」がいなくても、震えた足では歩けない。
絶望的な気持ちになって天仰いだら──
トイレの個室、ドアの上から、顔のない看護師が覗いていた。
従兄の話では、その生徒は朝方発見されたが、ほとんど気が狂ったような状態だったそうだ。
祖父が、入院した。
命に関わるような病気ではないが、1週間ほど大部屋に入ることになった。
ある夜、ふと目が覚めたら、カーテンの向こうに人の気配がした。
時計を見たら真夜中で、おそらく見回りの看護師だろう、と思いそのまま再び目を閉じた。
──けれど、その気配は一向に消えない。
何をしているんだ、と目を開けたら、顔のない看護師が祖父の顔を覗き込んでいたそうだ。
退院してから祖父から聞いた話だが、それでどうしたのか訊ねたら「幽霊だと思って目を閉じてそのまま寝たら、朝には消えていた」となんとも祖父らしい答えが返って来た。
ところで、先の生徒の話。
発見された時は気が狂ったような状態だったというが、ではこの生徒の体験談は、一体どうしてこんなにも詳しく語られているのだろう?
ただの創作なのか、それとも実際にあったことなのか、よく分からない。
祖父の入院していた病院と、その生徒が実習に行った病院が、同じ場所なのかどうかすら、知らない。
病院の怪談としては割とよくある話だ。
どちらも顔のない看護師だったのは、ただの偶然なのだろうか?
それも、よく分からない。
了
高校生の実習生は夜勤なんてしないよー